
地下工場の計画(松本強制労働調査団調べ)
近くの民家に残されていた工事計画の図面によると、壕は碁盤目状に掘られ、出入口は17カ所想定されていました。
計画した約3キロのうち、終戦までに40パーセントほどが掘られたとみられますが、現在、人が出入りできるのは1カ所だけです。
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壁に残る「天主」の文字
調査団のメンバー:
「高さ2メートルくらいのところに文字が書いてあるの見えますか。天主って書いてあります」
「天主」とは朝鮮半島で盛んだった天主教、つまりキリスト教の神のことではないかとみられています。
調査団や松本市の調べでは、工事には軍や勤労動員の日本人も関わっていましたが、松代と同様、掘削作業の中心は朝鮮半島から来た人たちでした。昼夜2交代で最も危険を伴う作業をしていたとみられています。
■想像を超えるつらさ…

金華山(林城山)の壕
(当時掘削作業をしていた金今出さんの証言/1986年の講演から)
「何せ岩山で固いこと固いこと。発破で穴の奥を崩してから掘り進んだんですが、かみそりのようになった石を踏んで仕事をするので地下足袋はすぐに切れ、わら草履は半日と持たなんだですね。裸足が多くて足からいつも血が出ていました」
参加者:
「たぶん想像を超えるつらさだっただろうなと思うんですよね」
「想像するだけでも苦しいなと思いますね」
工事は、着工から約4か月後の1945(昭和20)8月15日の終戦とともに終わりましたが、犠牲者やけが人の正確な数はわかっていません。

錆びたレール
地下壕の中に入って約1時間、錆びたレールがありました。「ズリ」(砕いた岩)を捨てるトロッコの物とみられています。
終戦後、ほとんどの資材が持ち去られる中、なぜ残ったかはわかっていません。
■フォーラムで掘削作業を実感

「ズリ」(岩)の上に乗る参加者(7月5日、松本市・あがたの森文化会館)
松本強制労働調査団のメンバー:
「里山辺の地下壕は聞いたことある、知ってる方がどれくらいいるでしょうか?」
「3分の1ぐらいですね」
7月5日、調査団の若手グループは松本市で開かれた「信州の若者がつむぐ平和創造フォーラム」に参加していました。
掘削作業を実感してもらおうと、壕から運んできた「ズリ」にも乗ってもらいました。
参加者:
「両足で立ったら結構きついです。これでは歩けない」