■12歳まで「戦争に参加させられた」

小型爆弾「ハハリユ」の一つの「缶詰爆弾」(駒ヶ根の資料館の展示)
小型爆弾の製造に動員された当時14歳の男性の証言:
「『爆弾だから注意して詰めるように』と上官から言われた。ブリキの蓋をしてハンダ籠手を使った。作ったのは『ハハリユ』だけだった」
登戸研究所では、主に学校などを使って、下は12歳の子供まで動員して、「ハハリユ」と呼ばれた携帯可能な小型爆弾を作っていたのです。
疎開後に、中沢国民学校などで作られていたのが「ハハリユ」の一つ、「缶詰爆弾」です。
当時15歳の女学生の証言:
「火薬を計って缶の中に棒で隙間なく詰めました。火薬をふき取り、男子が導火線を付けて仕上げました。天竜川の河原で爆発の実験が無事成功し、みな大声をあげて喜びました」
8年前の2018年に地元有志が立ち上げた「登戸研究所調査研究会」事務局長の松久芳樹さんは話します。
登戸研究所調査研究会 松久芳樹事務局長:
「学校ではなくて子供たちは登戸研究所の一員として扱われていた、戦争に参加させられていたんです」
■「本土決戦」では住民も義勇隊に

長野市の「松代大本営」
同じ頃、現在の長野市を含む善光寺平一帯では、いわゆる「松代大本営」のように巨大な地下壕を掘って政府の中枢を移転し徹底抗戦を図る「本土決戦」に向けた準備が進んでいました。
登戸研究所もその一翼を担っており、戦争が長引いていたら、住民は「国民義勇戦闘隊」として軍に組み込まれたと見られています。
明治大学文学部(軍事史)山田朗教授:
「正規軍の部隊と一緒になってアメリカ側を混乱されるような作戦です。担い手は地元の人たちでした」
■沖縄戦と同じ状況になった可能性

沖縄の戦跡を音擦れた研究会
2026年2月、登戸研究所調査研究会のメンバーは沖縄県を訪れました。
沖縄では終戦の年の3月から6月にかけて住民を巻き込んだ地上戦が行われ、日米合わせて約20万人が死亡しました。沖縄県のまとめで、住民の犠牲は約9万4000人にのぼりました。
研究者から、沖縄戦でも小型爆弾のことを「ハハリユ」と呼んでいて、少年たちの部隊が戦車に体当たり攻撃したことを聞きました。
登戸研究所調査研究会 松久芳樹さん:
「上伊那で作られた爆弾も当時の陸軍の暗号『ハハリユ』と呼ばれ、同じ名前の爆弾が沖縄戦でも使われていたことが明らかになりました。戦争が長引いていれば上伊那地域も沖縄戦のような状況になった可能性があると思います」

