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”白馬”を滑る 「素晴らしいスキーコースに」反対乗り越え…”神聖な山”切り拓く 戦後の雪山に夢を刻んだ男 リーゼンスラローム大会「日本一の草レース」80年の誕生物語(第1章/全2章)

■92歳が語る「第1回大会」

中学生の時、第1回大会に出場した丸山庄司さん92歳

白馬八方地区にあるホテル「対岳館」の2代目、丸山庄司さんは今年92歳。中学生として第1回大会に出場した数少ない存在だ。スキーを教えてくれたのは、当時積極的に地域の子どもたちを指導していた孝行だった。

「みんな選手全員が集団になって登るんです。スキーは必ず付けて、つぼ足なしで階段登りで。自分たちの滑るところをある程度予想しながらポールに沿って登って。満足でしたね、滑った!という感じを自分でもそのとき思いました」

まだリフトなどない時代、スタート地点までは歩きで上がるのが当然だった。

第1回大会には青年119人、16歳までの少年48人の合計167人が出場した。孝行は前走を務め、競技係長として計測の責任も担った。当時のストップウォッチを使い、前走の孝行がスタートしてから10分後に競技を開始し、その後は1分おきに選手がスタートするというルールを定め、ゴール地点で選手のスタートを予測して計測したという。

庄司さんはやがてアルペンスキーヤーとして頭角を現し、1964年には SAJ(全日本スキー連盟)の初代デモンストレーターに認定された。「きっかけを作ってくれたのはリーゼンスラローム大会ですね」という言葉は、大会が一人の人生をどれほど変え得るかを端的に示している。

■3人のオリンピアンを生んだコース

リーゼンスラロームコースで育ち五輪出場を果たしたアルペン界の重鎮・丸山仁也さん(右)

大会の歴史の中でも特筆すべきは、リーゼンスラロームコースがオリンピック選手を育てたという事実だ。

象徴的な存在が、ホテル「ヴァイサーホフ八平」を経営する丸山美保子さん。鳥取県出身の美保子さんは旧姓を大杖といい、日本人女性初のアルペンスキー選手として1968年のグルノーブルオリンピックに出場した。叔母の山崎清子さんはリーゼンスラローム大会で第2回から5連覇を続けた選手であり、美保子さん自身も第14回・第15回で2連覇を達成している。

「大山の田舎のスキー場とは比べ物にならないほどロングコースで、急斜面もあり、いろいろと変化のあるコースですので、アルペンスキーは特に、いろんなところを滑らなきゃいけないから、それに適した滑り方を自然と身につけたんじゃないかなと思いますね。この大会とコースでオリンピックに行けたんじゃないですか」と美保子さんは語る。

1967年に八方尾根で開催された全日本スキー選手権大会では、美保子さんが滑降競技で優勝し、滑降・大回転・回転の3冠王に輝いたのが後に美保子さんの夫となる地元白馬の丸山仁也さんだった。仁也さんの従兄弟・丸山寿一さんも回転で3位に入賞。こうしてリーゼンスラロームコースで育った3人が揃って翌年のグルノーブルオリンピックに出場することになった。

大会の生みの親・福岡孝行はこのことを大変喜んでいたと伝えられており、庄司さんはその言葉を今もこう記憶している。

「リーゼンスラローム大会は、こんな素晴らしい標高差があって素晴らしいコースがある。これをみんな多くのスキーヤーに知らせたかった。その中でオリンピック選手が出るというところまで想像していなかったけど、良かったよって、そうしみじみ言ったのを覚えています」

この記事は、NBSフォーカス信州「白馬を滑る 誇りの軌跡 〜リーゼンスラローム80年の物語〜」(制作:長野放送/放送:2026年3月27日)をもとに作成しました。

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