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【戦後80年】“遺書”に「自由の勝利は明白」敗戦予見し特攻へ…22歳で戦死の上原良司の思いたどる高校生「SNSが人々の分断あおる危険も、二度と戦争を繰り返さない」#戦争の記憶

「所感」

自由への憧れを抱きつつ、厳しい訓練を経た良司は1945年5月、鹿児島の知覧飛行場へ。ついに特攻出撃を命じられます。

その前日に書き記したのが冒頭の「所感」(遺書)です。

「人間の本性たる自由を滅ぼす事は絶対にできなく」
「権力主義・全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」

上原良司・調布飛行場で(上原幸一氏所蔵)

一方で、死ぬことに折り合いを付けようともしていました。病死した幼なじみ「きょうこちゃん」への思いです。

「天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません」

妹・清子さん(故人・2001年番組より):
「彼は、自分の特攻での死を天国にいるきょうこさんに会うための手段ということで、『生』を諦めたんですね。きょうこさんに行き会う気持ちだけで行ったんじゃないかと思います」

妹・登志江さん(2001年番組より):
「『おれは死んでも靖国神社には行かないからね』って言ったんです。『天国にいくから』って。『靖国神社に行ってもいないよ』って私はその一言が記憶に残っています」

遺書を書き残したクローチェの本

1945年5月11日午前9時、沖縄海上の敵艦船に突入―

上原良司 享年22

死後、イタリアの自由主義者・クローチェの本に書き込まれた遺書や手紙が、実家の本棚や引き出しに隠されているのが見つかりました。

都倉教授:
「最後まで死ななくていい可能性もあるんじゃないかと思ってるからこそ隠してる。よくよく考えるとやっぱり彼は生きたかったと思います。学生時代の彼は非常に普通ですし、そういう意味では彼が、必死に表現して残してくれたことを、何か別世界のものにせずに自分に近づけて考えてみる、そういうことが大事なのかなと」

良司と家族(上原幸一氏所蔵・慶應義塾福澤研究センター提供)

上原家では、良司の前に海軍軍医の次男の龍男が1943年、オーストラリア沖で戦死。後に陸軍軍医の長男・良春も1954年、ビルマ(現・ミャンマー)で戦病死しています。

都倉教授:
「無数の死っていうものがこの日本、あるいは世界中でこの時に起こったんだと。今も世界で起こってるっていう、そういう想像力を少しずつ広げていくっていうことのために戦争を記録していくっていうことが大事なんじゃないかと思います」

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長野放送ニュース

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