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【戦後80年】「生き地獄だった」原爆投下後の長崎で救援に当たった95歳男性の証言「蚊の鳴くような声で助けてくれ、水くれ…」 80年経っても「夢でうなされる」 #戦争の記憶

終戦後、ふるさとに戻る

3日後の8月15日、戦争は終わりました。9月になってふるさとに戻った中島さんを見て、家族は驚愕します。

中島さん:
「あの長崎にいたから生きて帰るはずがない、私は完全に死んだってみんな思っていたんです。おやじがつかまえてみたら『幽霊は冷たいはずだが温かいぞ』って。『学は生きて帰ってきた』と。そこからはもう本当に劇的なものでした」

長崎で「地獄」を見た中島さん。放射線の影響もあったのかは判りませんが、生きる目的を失い、4年間何もする気になれず死んだような日々を送りました。

中島さん:
「ふるさとへは帰ったが俺は何のために生きているんだと。中島学はこれでいいのかってことを次第に考え始める」

23歳のころの中島さん

20歳になった中島さんは農家を継いだ後、農協の指導員となってふるさとのために力を尽くします。1963(昭和38)年には多額の負債を抱えていた養鶏農家を救おうと組合を設立。松本地域で最大の養鶏場に育てました。その後、村会議員を経て1991(平成3)年から14年間、松本市と合併する前の四賀村の村長を務めました。

精力的に働いて来た中島さんですが、いつも心の中には「戦争」や「長崎」がありました。在職中に核兵器の廃絶と平和の実現を目指す村の宣言をしたほか、地元の小中学生に自分の戦争体験を語ってきました。

今も「あの日」の記憶は心に深く刻まれています。

中島さん:
「時々、夢に見るんですよ。そうするとうなされますよね。『今、助けてやるから』なんて叫んで、家内に『何言ってたんだ』なんてね。夜中に結局、思い出して叫んでいるそうです」

長崎の鐘

8月9日、長崎への原爆投下から80年が経ちました。中島さんも、いつか「戦争」がなくなることを願い続けています。

中島さん:
「もう本当に何もないです、戦争は。ただ破壊だけで、その破壊の中に尊い人命がどんどん失われていくという、人の幸せってものを全部奪っちゃうわけですから、これは絶対許されないわけですね」
「いろいろと困難な状況が出てくる。それはもう世の中当たり前です。だけど、とことん話し合いで乗り切って解決して、決して戦争ってものに持ってかないことを若い人たちの英知でやってもらわないと」

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長野放送ニュース

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