
海軍特別少年兵に志願し訓練を経て長崎へ
そして「運命の日」。
基地の壕にいる内に湿ってしまった服を乾かそうと外に出た中島さんは、南へ向かう機影を目撃します。それは第一目標の小倉への原爆投下を視界が悪いために断念し、第二目標の長崎へ向かうB29でした。
中島さん:
「ゆっくり大村上空を通って、それで長崎に消えていって」
1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、原爆投下ー。
中島さん:
「十数秒間、青白い閃光がピカーッと光ったんですね。それからちょっと間をおいてものすごい爆発音が鳴った」
広島に続く2発目の原子爆弾がもたらした熱線と爆風で長崎の街は壊滅。その年だけで7万人以上が犠牲となりました。
中島さんの部隊は3日後の8月12日に救援に赴きますがー。
中島さん:
「かつての長崎を見てますから、われわれ唖然としちゃって。惨めなね、建物が全部崩れる。木造なら理解できるが、鉄筋コンクリートでも何でも全部崩れちゃうんです」
被害の状況から、中島さんが活動したのは原爆が投下され、最も被害の大きかった浦上地区周辺だったとみられます。
中島さん:
「命令としては、既に死んでる人は一切見てはいけないと。『助けてくれ』って蚊の鳴くような声ががれきの下から聞こえるから、『今助けるからな、頑張れ』ってがれきを1個1個手でどかして、頭が出てくれば『さぁ、頑張れよ』って、脇の下に手をかけて引っ張り出してあげて。道具とか何にも無いわけでジャッキも無ければ何にも無い。とにかく全てが手です」

涙ながらに当時を語る中島さん
中島さんは、急きょ仕立てられた「救援列車」に負傷者を運び、被害の少なかった諫早や大村の駅まで送り届けました。
そのホームではー。
中島さん:
「被爆した人は『水くれ、水くれ』って叫ぶんです。かわいそうにね。水を与えるとあっという間に亡くなっちゃうわけです。水を飲むと重傷の方は大体10分か15分で息絶えるわけです。さっきまで叫んでた人が静かになったなと思えばもう息絶える。生き地獄という言葉があるが、これだろうなと思いましたね。まさに地獄です」
がれきの山と化した街で忘れられない光景があるといいます。
中島さん:
「一番凄惨に感じたのは、長崎市から標高で100メートルぐらい上がった山の中腹に、立派な中学校があったんです。その中学が鉄骨が数本残っただけです。全部潰れちゃいました」
爆心地の周辺には国民学校や中学校、女学校があり、児童の9割が犠牲となった学校もありました。
中島さん:
「あれはかわいそうでしたね。思い出せば本当にね、かわいそう。戦争はダメですね、本当にね。かわいそう」