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【戦後80年】「“新型爆弾”が長野に落ちるとデマが…」当時13歳の男性(93)が証言 空襲に備え防空壕を必死に堀った日々…終戦2日前に空襲で47人が犠牲に #戦争の記憶

現在の中央通り

戦争も末期になると地方都市も空襲に遭うようになっていました。

北沢さん:
「焼夷弾が落ちた時のために、どの家も砂袋と水を入れたバケツを用意してあって、寝るときにはゲートル巻いてるし、すぐ飛び出せるように。もっとも、履いているものは草履なんだよ。革靴も履きつぶし、ゴム長靴もない」

7月、市街地で始まったのが、「建物疎開」です。郵便局や銀行を空襲による火災から守るため、周辺の建物が取り壊されました。

北沢さん:
「のこぎりで太い柱に筋を入れてロープを掛けて人間の力で引っ張って倒した。長野駅の周りなんか惨憺たるものだったよ」

駅前の如是姫像も、金属供出で消える

その頃、北沢さんは、藤屋旅館にいた飛行機の技術者に警告されます。

北沢さん:
「『防空壕に入っちゃいけないよ』って言われたんだ。『市街地が空襲されると周り中が火の海になるって。防空壕に入った人は皆、蒸し焼きだって。気づいた時には脱出できない』って」

北沢さんの営む薬局

そして、8月13日。

北沢さん:
「きれいな飛行機だなと思ったら、★(※米軍)のマークがわかった。8機の編隊が建物の向こうに隠れたと同時にドカドカって音がして」

北沢さんと家族は防空壕に入らず、店の品物を荷車に積んでなじみ客の所へー。

逃げる途中、飛行場から炎が上がるのを目にしました。

北沢さんの家に被害はありませんでしたが、この「長野空襲」で47人が犠牲となりました。

その夜ー

北沢さん:
「原子爆弾が落ちるんじゃないかっていう、噂とも言えないデマが流れた。8月13日の夜に。大八車に布団積んで、子ども積んで、年寄り乗せて、おんぶして。逃げる列が延々たるもんだよ。とうとう家でも『どっか行かなきゃ』『広島に落ちたのと同じ新型爆弾が落ちるって話だよ』なんて」

北沢理一さん

そして、終戦ー。

大学で薬学を学び、結婚して家業を継いだ北沢さんは店と家族を守りながら戦後を生きて来ました。

93歳の今、思うことはー。

北沢理一さん:
「歴史教育はうんと大事だし、平和は大事だよ。外交をしっかりやってもらいたい一番は。そうすれば戦争はない」
(Q戦争を知る人が本当に少なくなっていますが)
「戦争を知る世代がもっと声出していいね。生きてるうちに」

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長野放送ニュース

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