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【戦後80年】「“新型爆弾”が長野に落ちるとデマが…」当時13歳の男性(93)が証言 空襲に備え防空壕を必死に堀った日々…終戦2日前に空襲で47人が犠牲に #戦争の記憶

現在の長野市

父は既に他界し、祖父は松代に疎開していて、母と姉との3人暮らしでした。

姉が通う女学校は軍服の縫製工場になり、北沢さんも長野飛行場を拡張する「勤労奉仕」に明け暮れます。

北沢さん:
「2時間くらい歩いて松岡の飛行場まで行って、畑を壊して元々植えてあった麦をよその場所に移して滑走路を造ったんです」

食料や生活必需品は全て「配給制」で、我慢の日々が続きました。

北沢さん:
「夜は一家で一つの部屋に集まって、60ワットの電球の下で勉強したり縫物をしたり。電灯の光が外に漏れないよう風呂敷や黒い布で囲ってね。街の雰囲気は仲良かったね、住民同士助け合ってたね、みんな仲良かったよ」

川上今朝太郎さんの写真集

北沢さんが見た戦時下の長野の街を軍の「情報統制」下で写真に撮り続けた人がいました。

信濃毎日新聞社の記者だった故・川上今朝太郎さんです。

長野市公文書館元職員・西沢安彦さん:
「命がけで写真を撮って、フィルムなんかも隠して、そういうものです。軍の検閲で没収されず川上さんが個人として守り通した、そういう記録なんですよ」

そう語るのは、長野市公文書館の元職員、西沢安彦さんです。戦中の資料は、土蔵などに密かに保管されていた物が多く、空き家の整理などで見つかることもあるといいます。

西沢さん:
「戦時中の資料は焼却しちゃっているんです、軍の命令ですからね。例えば押し入れや土蔵、箪笥の中で埃だらけになってる中にあるとかね。まとめて可燃物のごみで出しちゃいましょうという話も聞いたことがありますから、そういう資料が残るか残らないかというのも偶然というか、貴重な記録ですから、いっぺん失われたら二度とそれはない情報。私たちが共有し文化的財産、遺産にしていく必要がある。そこから常に学ぶことをしていかないと」

5機の飛行機がゆっくり旋回したという

終戦の年ー。

大門の薬局の北沢さんは訓練で近所の旅館に滞在していたパイロットと仲良くなります。

北沢さん:
「特攻隊だったの。井村さんという伍長が17歳。その人と仲良くなってね。飛行訓練やるとすごいんだ。藤屋さんの屋根ぐらいまで下りてくる、グーって。それで舞い上がっていく」

4歳年上で兄のような存在でした。

北沢さん:
「『俺、明日行くよ』そう彼が言ったの。九州の基地へ行って、いよいよ爆弾つけて沖縄へ飛ぶんだよね。戦争が続けば俺たちも兵隊に引っ張られると思ってたから悲壮感はなかった。私は『じゃあ俺、日の丸を振るよ』って」

翌朝、5機の飛行機が、屋根に登って待っていた北沢さんの上をゆっくりと旋回しました。

北沢さん:
「井村伍長だけ編隊から分かれて、もう1回まわってくれた。そのまま飛んで行った」

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