
長野市篠ノ井共和地区の中尾山周辺
終戦から78年。大戦末期、善光寺平一帯ではいわゆる「本土決戦」の準備が進んでいたと見られている。長野市篠ノ井共和地区でも地下壕などが作られようとしていたことが新たにわかってきた。

終戦時の長野市安茂里共和地区について報告する滝沢孝正さん(右から3人目)
滝沢孝正さん(90):
「水戸の工兵隊が共和小学校に300余名来ていました」
今月4日、長野市篠ノ井の光林寺で終戦時の共和地区の状況を報告する集いが開かれた。
当時12歳で共和国民学校6年生だった滝沢孝正さん(90)は、終戦直前の7月に陸軍が、8月には海軍が学校に来たと話す。

記憶に基づいて滝沢さんが描いたイラスト
滝沢孝正さん(90):
「(光林寺の)松並木に退避壕を作ってトラックが遮へいされて(隠されて)いた。でも道具(機械)はほとんど無い」

滝沢さんによる当時のイラスト、米軍の焼夷弾を再利用したシャベルなどがあったという
本格的な掘削機械などは無く、米軍の焼夷(しょうい)弾を再利用した物などシャベルが数百本あったという。

善光寺平一帯の施設(終戦時)
当時、善光寺平ではいわゆる「本土決戦」に向けた準備が進んでいた。

長野市松代地区の地下壕
最も規模が大きかったのが、政府の中枢が入る予定だった松代地区の地下壕で陸軍が工事を進めていた。

安茂里地区の「大本営海軍部壕」
近年、松代地区からおよそ10キロ北の安茂里地区でも海軍による壕(大本営海軍部壕)が確認され、地元有志で作る「昭和の安茂里を語り継ぐ会」が研究を進めている。
安茂里から3キロ余り離れた共和地区にいたおよそ500人の陸海軍の兵士は何をしていたのだろうか。

共和地区の中尾山一帯に高射砲陣地などを作ろうとしていたとみている
報告会を呼びかけた1人で「昭和の安茂里を語り継ぐ会」の土屋光男さんは住民の話などから国民学校の裏の中尾山一帯に高射砲陣地などを作ろうとしていたとみている。
南の菅平方面から飛来する敵機を狙うのにこの地が適していたのではないかということだ。

壕を掘っていたと思われる斜面
高射砲陣地とみられる場所の数百メートル南にはすっかり崩れてはいるが、壕だったと思われる横穴の跡が4カ所見つかった。

「昭和の安茂里を語り継ぐ会」土屋光男さん
昭和の安茂里を語り継ぐ会 土屋光男さん:
「あそこに穴があったのを見たことがあるという人も出てきた。軍にこの土地を譲ったという傍証的な証言も出てきた」

