■40年前…宮司としての第一歩

「拝観式」を取り仕切る当時35歳の宮坂宮司(1986年2月)
40年前・1986(昭和61)年のニュース映像。御神渡り出現後の「拝観式」を取り仕切るのが当時35歳の宮坂宮司です。
前の年に父・清通さんが亡くなり、4代目として初めて儀式に臨みました。
宮坂清宮司:
「(御神渡りを見て)最初に感じたのは、恐ろしい現象が起きてるなと思いました。人々はどういう思いで接してきたのかなっていうことからだんだん興味を持ち始めて」
八剱神社は16世紀末、高島城を建てるために今の場所に移転しましたが、もともとは諏訪湖畔に位置していたことから、御神渡りの判定をつかさどることになったとされ、宮坂家は明治時代から宮司を務めています。
■記録が語る 先人たちの暮らし

「御渡注進録」
神社に残る多くの記録―。
御神渡りの結果を記した「御渡注進録」などです。宮坂宮司は就任以降、これらの記録を丁寧に読み解き、先人たちの暮らしを見つめてきました。
これは明治時代の記録。出現した「御神渡り」の道筋の始点と終点の位置などが記されています。
さらに―。
宮坂宮司:
「米作・養蚕ともに『上々作』に御座候」
記録されているのは湖の状況だけではありません。
江戸時代中期の記録には、毎回「上作」「下作」など、稲作についての記述があります。
宮坂清宮司:
「これがものすごくものを言うわけです。やっぱり一番大切なのはそこですから。生きることって、ある意味では食べること」
「御神渡り」に五穀豊穣と平和な生活を願う気持ちが込められていることが分かります。
また、ある時には―。
宮坂清宮司:
「7月2日より浅間、大焼き。昔は噴火のこと大焼きって言ったんですよ。当国・この諏訪の方にもかすみかかり、その上、御郡中一等の大不作。飢え人、餓死する人、むらむらにこれあり候」
1782(天明2)年から始まる「天明の大飢饉」です。洪水や浅間山の噴火など、相次ぐ自然災害で稲が育たず、多くの人が飢餓に苦しみ疫病もはやりました。記録には諏訪地域でも多くの死者が出た一方、人々が山に行き植物の根などを食べて生き延びたことなどが克明に記されています。
宮坂清宮司:
「御渡帳の記録っていうのは命をつないできた、生きた人の歩み、証し。ここに集約されているのかなと思うと、語るものは多いなと思いました」

