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【戦後80年】「生き残って家族の元へ」自決前に軍医が沖縄の野戦病院「糸洲の壕」で看護していた女学生を逃がし命救う 最後の訓示「絶対に死んではならない。悲惨な戦争の最後を銃後の国民に語り伝えてくれ」

■「生き残って悲惨な戦争を伝えて」

長野県佐久市出身の小池勇助軍医(小池清志さん提供)

戦況の悪化とともに軍は南へと撤退。小池軍医と学徒隊も最初の壕から10kmほど南にある「糸洲の壕」に移りました。

「ふじ学徒隊」真喜志光子さん(映画「ふじ学徒隊」より):
「この壕に移動してきてからは、患者も少なくて、みんな疲れていたもんだから黙って、話もしませんでした。その時に隊長さんが来られて、『こんな悲惨な戦況になると思えば、皆さんを預かるんじゃなかった、誠にすまないことをした』」

6月23日、司令官の牛島満中将が自決。沖縄での組織的な戦闘が終了し、学徒隊には解散命令が出されました。

「ふじ学徒隊」が解散したのは戦闘が落ち着いた3日後の26日。小池軍医が最後の訓示をしました。

「必ず生き残って家族のもとに帰りなさい。絶対に死んではならない。悲惨な戦争の最後を銃後の国民に語り伝えてくれ」

“生きて虜囚の辱めを受けず”その考えの下住民を巻き込む集団自決が相次いだ中、小池軍医は3人1組となって、壕から脱出するよう指示。見届けた後、壕の奥で青酸カリを飲み、自決しました。

「ふじ学徒隊」宮城トヨ子さん(映画「ふじ学徒隊」より):
「『必ず家族に会って、第二第三の国民の養成に、生き延びてあたってくれ』とおっしゃったんですよ。その言葉しか頭に残らないで、結婚して子ども出来てからは一生懸命でした」

■「ふじ学徒隊」25人中22人が生還

「ふじ学徒隊」の娘 金城邦子さん

沖縄戦の死者は20万人以上にのぼり、そのうち、9万4000人が沖縄の住民とされています。動員された生徒・教師は約2000人で、1000人余りが犠牲になりました。

そうした中、ふじ学徒隊の25人は、脱出後、多くが捕虜となり、22人が生還、犠牲者は3人でした。

壕を訪れた糸満市在住の金城邦子さん(76)。母親の識名芳子さんは「ふじ学徒隊」22人の生存者の一人です。

「ふじ学徒隊」の娘 金城邦子さん:
「小池隊長のことは聞いたりしていたんですよ。あのおかげで助かったよというのは。それで私も存在しているのかな」

芳子さんは当時のことは話したがらなかったといいますが、20年ほど前から少しずつ、当時のことを語るようになったといいます。

「ふじ学徒隊」の娘 金城邦子さん:
「手術の時に麻酔もない状態で、負傷したところを膿が入って切断しないといけない時に、のこぎりか何かの音がして、悲鳴が聞こえたりとか。何かしら話したかったのかもしれないですね、生きているうちに」

芳子さんは現在98歳。体調を崩してから施設に入っていて、今は会話も難しい状態です。

「ふじ学徒隊」の娘 金城邦子さん:
「私も孫がいますので小学生から中学、大学生まで。その子たちもまだここ連れてきたことないので、連れてきて、ここでひいばあちゃんがこういう体験したんだよって家族にも話していきたい」

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