あとは事件との関連…その矢先に

地下鉄サリン事件(1995年3月)
1995年3月20日、地下鉄サリン事件が発生。
またしてもサリンがまかれ、死者13人、5800人以上に中毒症状が出ました。
県警元捜査員・上原敬さん(69):
「地下鉄(サリン事件)が起こってしまって、そういう面では非常に残念だと思うし、何かやりきれない気持ちはある」
警視庁と捜査内容共有 強制捜査へ

教団施設の強制捜査(1995年3月)
その後、これまでの捜査内容は警視庁とも共有され、教団施設の強制捜査へと一気に進み、サリンの製造者、実行犯の特定につながりました。
合同捜査本部に加わった上原さん。サリンを製造し、殺人予備罪に問われた男性信者の取り調べを担当しました。
男性信者の取り調べると…

男性信者の取り調べを担当(イメージ)
製造プラントなどを事細かく説明する信者。しかし、多くの人の命を奪ったことへの反省や後悔は感じられなかったと言います。

当時の教団信者
県警元捜査員・上原敬さん(69):
「ワーク(修行)と称してそういうものに没頭させられていた。それで踊らされているっていうか、そういうことをやったのが若者。だから本当につらさというか、宗教の怖さっていうのかな。ひしひしと感じた」
信者の一言に驚愕

押収された大量の薬品(1995年3月)
取り調べで「最終的にどの位のサリンを作る予定だったのか」と尋ねると…。
「1日2トン、合計70トンです」
県警元捜査員・上原敬さん(69):
「(ある文献には)『7トンを東京上空にまき散らせば、山手線の内側は4分間で死の街となる』と。東京で7トンだから、10個の都市を壊滅することを考えていたんじゃないかな。(教団は)ヘリコプターも持っていた。麻原はそういうことを考えていたんじゃないか」
大き過ぎる被害 消えない記憶

長野県警の元幹部 上原敬さん
30年前、恐怖と使命感に駆られて行った捜査。上原さんの記憶から消えることはありません。
県警元捜査員・上原敬さん(69):
「亡くなった方もいるし、まだ苦しんでいる方もいる。被害が大き過ぎちゃって、もうこんな事件は起きてほしくないし、起こってもらっては困るなと」