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【戦後77年】“水上特攻”『マルレ』97歳元隊員の証言 追い詰められても…「死にたかねえで」

太平洋戦争末期、いわゆる「特攻」で多くの若い命が失われました。その一つが「マルレ」と呼ばれた、爆雷を積んだ小型ボートによる「水上特攻」です。元隊員が長野県岡谷市におり、現在97歳。奇跡的に生還した男性の証言と思いです。

岡谷市の浜槙人さん、97歳。小型のボートによる「水上特攻」の元隊員です。

浜槙人さん:
「人間は死ぬまでのところまで追い詰められてもね、生きたいと思う。死にたかねえで」

生きたい、死にたくない…。特攻から生還した浜さんの率直な言葉です。

昭和19年(1944)、陸軍に入った浜さんは「船舶特別幹部候補生」として、瀬戸内海で海上輸送や上陸の訓練を受けていました。

しかし、突然、新しくできた部隊に配属されます。「海上挺進戦隊」。特攻のための部隊でした。

戦局の悪化で追い詰められた日本軍は、兵士の犠牲を前提とした「特攻」を始めます。小型ボートを使った「水上特攻」兵器として海軍は「震洋」を開発。

そして、陸軍も…。

浜槙人さん:
「俺たちが乗っていた船、これね、ベニヤ張りだ。鉄のところなんてねえだ。木っ端舟、戦争中で物がなかったからしょうがねえだ」

ベニヤ板でつくられ、自動車のエンジンを載せた長さ5メートル余りのボート。本来の目的を隠して「連絡艇」、頭文字を取って「マルレ」と呼ばれました。

「マルレ」の戦法は夜、敵の輸送船などにギリギリまで接近、爆雷を投下するというもの。離脱した直後に爆発する想定でしたが…。

浜槙人さん:
「逃げるつもりで行くけれど、みんな敵へ近づくまでに機銃掃射で半分はやられちゃう。逃げても自分が(爆雷を)落とした所から30メートル以上逃げてないと巻き添えになって死んじゃう」

実際には生還は難しく、アメリカ軍から「スーサイドボート」(自殺艇)と呼ばれることになります。

士官クラスは参加の意思を確認されましたが、浜さんたち一般の隊員にはそんなことはなかったといいます。

浜槙人さん:
「志願したり(列の)一歩前に出ろとか、そういうことはなくて、みんな隊員が並べば、それがみんな特攻隊。みんながそうだもんで、どうしようもないと思ったけど、本心はねえ、死にたかなかった」

昭和19(1944)年12月、部隊は激戦地・フィリピンへ。2カ月前のレイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅するなど、日本軍の劣勢は明らかでした。

昭和20(1945)年1月、いよいよ出撃のため移動することになり、夜の海に出ましたが…。

浜槙人さん:
「わしの船はね、エンジン故障して動かなくなって、他の連中を呼び止めたけどエンジンの音で俺が呼んだ声なんて聞こえやしねえ。みんな行っちゃって」

自動車から転用したエンジンは信頼性が低く、内地での訓練時から故障が相次いでいました。浜さんら4人を乗せた「マルレ」は大海原を漂い始めました。4日ほどで食料は尽き、飲み水も…。

浜槙人さん:
「海の水は飲んだもんなら5分もたちゃあここ(喉)がね、辛っぽくなってね。塩水だもんね、真水じゃなきゃダメだ、人間は。で、おしっこなんてダメだと思うけど飲んでみたくなるじゃん、飲むものねえだで。ところがアンモニア臭くて、おしっこなんて飲めたもんじゃない」

スコールを溜めて渇きを癒やし、海鳥を食べるなどして20日間も漂流。餓死寸前のところを助けてくれたのは、初めて会う敵の船でした。

その時、浜さんは短刀で腹を刺し、自決を試みます。戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え込まれていたからです。

浜槙人さん:
「捕まりゃ恥だから、否応なし。死ななきゃいけねえような、そういう軍隊の訓練だった」

しかし、アメリカ兵に止められ、死ぬことはできませんでした。その後、フィリピンの捕虜収容所で終戦を迎えます。「海上挺進戦隊」3100人は約6割の1800人が戦死。ほとんどが10代で多くが出撃もできず、乗っていた輸送船への攻撃や陸での戦い、飢えや病気で命を落としたといいます。

浜さんの中隊32人の内、生き残ったのは浜さんともう一人だけでした。フィリピンでの日本軍の戦死者は50万人にのぼりました。

昭和22年(1947)に帰国した浜さんは、ふるさと・岡谷で電気店を始めます。冷蔵庫にテレビ。高度経済成長で日本は豊かになり、浜さんも子や孫に恵まれました。

しかし、生き残った葛藤から長い間、家族にも自分の体験を話せなかったといいます。

1995年、浜さんは自分を助けてくれたアメリカ軍の兵士と戦後、再会。共に漂流した県内の男性と3人で会うこともできました。

浜槙人さん:
「(漂流中は食べる物が無くて)地下足袋をナイフで削って、ゴムを食べられるかと思って食べた」

元米軍兵・ブレディさん:
「50年前、あの海の上で皆さんに会えて良かったと思っています」

かつての敵同士に穏やかな時間が流れていました。

無謀な戦いの犠牲となった若者たちを悼む碑が、浜さんも訓練を受けた広島県の江田島に建てられています。香川県の小豆島にも記念碑があり、元隊員の出席が絶えた今も、慰霊の式が開かれています。

足腰が弱くなった浜さんは2021年から諏訪市内の施設に入っています。

浜槙人さん:
「今になりゃ、死なんで良かったよ。ありがたいと思う、生きてることが。死んじまえば、それっきりだで」

2022年9月で98歳。戦争体験を語れる人が減る中、浜さんは「これだけは伝えておきたい」と話します。

浜槙人さん:
「戦争なんて、やっちゃいけないということを皆に、子や孫に言いたい。戦争なんて、やっちゃいけないよ。殺しっくら(殺し合い)だで」
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