
「信濃の塔」の前での慰霊式
長野県出身の戦没者を慰霊するため沖縄県に設置された「信濃の塔」で30日、長野県遺族会の追悼式が行われました。
沖縄戦の最後の激戦地となった糸満市の「摩文仁の丘」を望む平和祈念公園の一角に「信濃の塔」と刻まれた慰霊塔があります。
「黙とう」
1月30日、塔の前でで長野県遺族会による追悼式が行われました。
長野県遺族会 池内宜訓会長:
「沖縄は戦争の深い傷跡と悲しみを歴史に残し、戦争の悲惨さと平和の尊さを教えてくれる地です」
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月から日米両軍が激しい地上戦を繰り広げた沖縄。多数の民間人を巻き込んだ戦闘による死者は20万人以上にのぼりました。戦争が長引けば、本土でも同じ光景が繰り返されていたはずです。
「信濃の塔」は、沖縄戦をはじめ先の大戦で亡くなった県出身の戦没者5万5000人余りの慰霊のため、本土復帰前の1964(昭和39)年に建立されました。
県遺族会では毎年、追悼式を行っていて今年は遺族22人が参列しましたが、高齢化が進み参列者は年々少なくなっています。
遺族会員:
「こんなにたくさんの人がこの地で亡くなられたんだと痛感しています。後世に伝えるべくこれからも活動していきたい」
遺族会員:
「今現在も世界各国でいろいろな紛争がありますけど、そういった争いごとが無くなってくれれば」
追悼式の後、参列者が訪れたのは「糸洲の壕」。信州と縁のある場所です。
ここには追い詰められた兵士や女子学徒などが自決も覚悟してこもっていました。最後の時が迫る中、現地の野戦病院にいた長野県佐久市出身の小池勇助軍医は女子学徒たちに生き延びるよう諭し、壕から逃がしました。
その後、小池軍医は自決。女子学徒25人のうち22人が生き残りました。壕は近年、草木が生い茂り、入るのが困難となっていましたが、佐久市が平和教育に活用しようとクラウドファンディングで資金を募り、階段や手すり、案内板などを整備しました。
今年で戦後80年。戦争を直接体験した人たちから直接話を聞く機会が減る中、記憶を継承する取り組みが続いています。
阿部守一長野県知事:
「若い人たちの交流を通じて、戦争の悲惨さ、平和の尊さが将来に向けて引き継がれるように県としても取り組んでいきたい」