
老舗衣料品店の年末年始です。長野市の繁華街・権堂と共に歩んできた「紅久」。前身の化粧品店から数え、この秋で100周年を迎えます。営業の様子に密着しつつ、店の歴史と長く支持される理由を取材しました。
年の瀬が近づいた長野市の権堂アーケード。その一角にある店では…
80代女性(市内から):
「短い?」
スタッフ:
「短くないです。あまり長いと重たくなるので」
80代女性(市内から):
「いいの見つけちゃった。どうしよう、いいの見つけちゃって」
ここはアーケードの中ほどにある衣料品店「紅久」。たくさんの婦人服が並んでいます。量販店のように同じデザインのサイズ違いや色違いが豊富にある訳ではないので、「一点物」に近い服との出会いがあります。
スタッフ:
「とてもいい感じです」
こちらの80代の女性は、試着したカーディガンとセーターのアンサンブルを購入しました。
80代女性(市内から):
「ふらっと来て、ふらっと買っちゃった。手が出ないっていう感じじゃなくて、買いやすい」
シニア層に支えられ、店はいよいよ100周年の大きな節目を迎えようとしています。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「その時、その時の時代のお客さまに合った、ニーズに沿った商品構成をずっとやってきて、100年になっちゃったというような感じ」
2代目の渡辺晃司社長(79)。店を守りつつ、権堂の行く末を考えながら歩んできた経済人です。
紅久のルーツは東京です。元々は父・綱雄さんと綱雄さんの兄・久雄さんが営んでいた、「口紅」の製造・販売の店でした。1923年、関東大震災で被災したのを機に、綱雄さんはふるさとの長野に戻り、今の店を始めました。
こちらは戦後まもない1948年の写真。化粧品の実演販売の様子です。やがて婦人服に力を入れるようになり、1952年に店を改築。渡辺社長が9歳の時でした。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「小さい時からお前、跡をやるんだぞという形で、あまり深く考えないでその気になって、継ぐのが当たり前という感覚があった」
大学を卒業しスーパーで修業した後、25歳で店に入りました。時代は高度成長期。権堂商店街は1961年にアーケードとなり、「紅久」も店舗面積を増やしていきました。1962(昭和37)年、「ボン紅久」オープン。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「あの頃は、前年比1割、2割アップは当たり前。3割、4割に伸ばさなければ努力したとは言えないなんていう時代が、ずっと高度成長で続いた」
1978年には権堂に「イトーヨーカドー長野店」がオープン。大型店との共存の時代へ入りました。
紅久・渡辺晃司社長(当時):
「(店が)個性を持って頑張らなければ、ただ通ってしまうと。そういう個性付けというか、特徴付けのある店を目指して頑張っていきたい」
こちらは1980年の正月の様子。アーケードは人でごった返していました。その後、父の跡を継いで社長になってからも商売は順調でしたが、長野オリンピック(1998年)の終了を境にアーケードは徐々に活気を失っていきました。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「バブルがはじけて、日本中が大変だったんですが、じわじわ景気が後退してきてる、そういう状況が続いた。郊外に大型店が出ると、そういう時代に変わって、中心市街地の地盤沈下もひどかったと思う」
渡辺社長は商売の一方、アーケードの改修、再開発構想の取りまとめなどに奔走。ここ最近は商店街の仲間と共に、コロナ禍の影響を挽回しようと取り組んでいます。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「やっぱり中心市街地を活性化しなければ長野市の発展はない。そういう気持ちで商店街活動とか、地域の活性化の方に力を入れて店は、ほっぽらかしというか、任せてやってきた」
紅久を支えるのはシニアの女性たちです。実は「立地」とも関係があります。
客:
「バスの時間があるから買い物。私たち、芋井だから店がないから、来た時ちょっと。この袋もそう(紅久で購入)だったし、着てるこれもそうでした」
紅久・渡辺晃司社長(79):
「公共交通機関が非常に便利で、鬼無里、戸隠、中野、須坂から電車、バスに乗って来て、1番の強みはそういうシニアのお客さまが遠くから、うちを求めて来ていただける。お客さまに支持されて、売り上げが維持されてるのだと思う」
毛糸や肌着の品ぞろえを充実させているのも、シニア層のニーズをくみ取ってのことです。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「飯山、中野、須坂、毛糸屋がもうない。だから、編む方も少ないけれど、やはり店に置いて、そういうニーズに応えなければ」
客:
「昔は(毛糸屋が)いっぱいあったけど、手編み少なくなったから、(毛糸を)売ってるのがすごくいい。編み物してる人にプレゼントで喜ばれる」
2023年1月2日。看板はまだ「99年」ですが、秋には100年に。節目の年がスタートしました。2日と3日は初売りで全品半額でしたが、客足はかつてと比べると寂しいものでした。メインがシニア層である故の結果です。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「コロナ禍になってからは、どうしても家から出る機会を減らして、コロナにうつらないように街中に出る機会が減ってきてる」
それでも、店はファンに根強く支えられています。
スタッフ:
「小ぶりの感じがお客さまにちょうどいい」
70代女性:
「これ一つください。私の姉もお宅の着てるの」
スタッフ:
「ありがとうございます」
70代女性:
「いつか寄ろうと思って、今ごろになっちゃった。初売りだから自分のもので奮発しました。色合いも柄も良かったから即決しました」
スタッフ:
「ありがとうございました」
70代女性:
「1カ月に一度くらいは必ず来てる。自分に合うようなものがあるかなって見て、なんかいいのあるんですよね」
化粧品、毛糸、婦人服と客のニーズをくみ取りながら生き抜いてきた紅久。厳しい時代が続きますが、社長は前を向いています。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「(シニアの)期待を受けてますので、われわれは常に危機感を持って、どうしたら次に進めるかを考えながら、このままだと100年続けるということは不可能だと思いますし。新しい未来は開けると思うので、お客さまの動きを見て頑張っていかなくちゃいけない」
年の瀬が近づいた長野市の権堂アーケード。その一角にある店では…
80代女性(市内から):
「短い?」
スタッフ:
「短くないです。あまり長いと重たくなるので」
80代女性(市内から):
「いいの見つけちゃった。どうしよう、いいの見つけちゃって」
ここはアーケードの中ほどにある衣料品店「紅久」。たくさんの婦人服が並んでいます。量販店のように同じデザインのサイズ違いや色違いが豊富にある訳ではないので、「一点物」に近い服との出会いがあります。
スタッフ:
「とてもいい感じです」
こちらの80代の女性は、試着したカーディガンとセーターのアンサンブルを購入しました。
80代女性(市内から):
「ふらっと来て、ふらっと買っちゃった。手が出ないっていう感じじゃなくて、買いやすい」
シニア層に支えられ、店はいよいよ100周年の大きな節目を迎えようとしています。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「その時、その時の時代のお客さまに合った、ニーズに沿った商品構成をずっとやってきて、100年になっちゃったというような感じ」
2代目の渡辺晃司社長(79)。店を守りつつ、権堂の行く末を考えながら歩んできた経済人です。
紅久のルーツは東京です。元々は父・綱雄さんと綱雄さんの兄・久雄さんが営んでいた、「口紅」の製造・販売の店でした。1923年、関東大震災で被災したのを機に、綱雄さんはふるさとの長野に戻り、今の店を始めました。
こちらは戦後まもない1948年の写真。化粧品の実演販売の様子です。やがて婦人服に力を入れるようになり、1952年に店を改築。渡辺社長が9歳の時でした。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「小さい時からお前、跡をやるんだぞという形で、あまり深く考えないでその気になって、継ぐのが当たり前という感覚があった」
大学を卒業しスーパーで修業した後、25歳で店に入りました。時代は高度成長期。権堂商店街は1961年にアーケードとなり、「紅久」も店舗面積を増やしていきました。1962(昭和37)年、「ボン紅久」オープン。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「あの頃は、前年比1割、2割アップは当たり前。3割、4割に伸ばさなければ努力したとは言えないなんていう時代が、ずっと高度成長で続いた」
1978年には権堂に「イトーヨーカドー長野店」がオープン。大型店との共存の時代へ入りました。
紅久・渡辺晃司社長(当時):
「(店が)個性を持って頑張らなければ、ただ通ってしまうと。そういう個性付けというか、特徴付けのある店を目指して頑張っていきたい」
こちらは1980年の正月の様子。アーケードは人でごった返していました。その後、父の跡を継いで社長になってからも商売は順調でしたが、長野オリンピック(1998年)の終了を境にアーケードは徐々に活気を失っていきました。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「バブルがはじけて、日本中が大変だったんですが、じわじわ景気が後退してきてる、そういう状況が続いた。郊外に大型店が出ると、そういう時代に変わって、中心市街地の地盤沈下もひどかったと思う」
渡辺社長は商売の一方、アーケードの改修、再開発構想の取りまとめなどに奔走。ここ最近は商店街の仲間と共に、コロナ禍の影響を挽回しようと取り組んでいます。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「やっぱり中心市街地を活性化しなければ長野市の発展はない。そういう気持ちで商店街活動とか、地域の活性化の方に力を入れて店は、ほっぽらかしというか、任せてやってきた」
紅久を支えるのはシニアの女性たちです。実は「立地」とも関係があります。
客:
「バスの時間があるから買い物。私たち、芋井だから店がないから、来た時ちょっと。この袋もそう(紅久で購入)だったし、着てるこれもそうでした」
紅久・渡辺晃司社長(79):
「公共交通機関が非常に便利で、鬼無里、戸隠、中野、須坂から電車、バスに乗って来て、1番の強みはそういうシニアのお客さまが遠くから、うちを求めて来ていただける。お客さまに支持されて、売り上げが維持されてるのだと思う」
毛糸や肌着の品ぞろえを充実させているのも、シニア層のニーズをくみ取ってのことです。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「飯山、中野、須坂、毛糸屋がもうない。だから、編む方も少ないけれど、やはり店に置いて、そういうニーズに応えなければ」
客:
「昔は(毛糸屋が)いっぱいあったけど、手編み少なくなったから、(毛糸を)売ってるのがすごくいい。編み物してる人にプレゼントで喜ばれる」
2023年1月2日。看板はまだ「99年」ですが、秋には100年に。節目の年がスタートしました。2日と3日は初売りで全品半額でしたが、客足はかつてと比べると寂しいものでした。メインがシニア層である故の結果です。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「コロナ禍になってからは、どうしても家から出る機会を減らして、コロナにうつらないように街中に出る機会が減ってきてる」
それでも、店はファンに根強く支えられています。
スタッフ:
「小ぶりの感じがお客さまにちょうどいい」
70代女性:
「これ一つください。私の姉もお宅の着てるの」
スタッフ:
「ありがとうございます」
70代女性:
「いつか寄ろうと思って、今ごろになっちゃった。初売りだから自分のもので奮発しました。色合いも柄も良かったから即決しました」
スタッフ:
「ありがとうございました」
70代女性:
「1カ月に一度くらいは必ず来てる。自分に合うようなものがあるかなって見て、なんかいいのあるんですよね」
化粧品、毛糸、婦人服と客のニーズをくみ取りながら生き抜いてきた紅久。厳しい時代が続きますが、社長は前を向いています。
紅久・渡辺晃司社長(79):
「(シニアの)期待を受けてますので、われわれは常に危機感を持って、どうしたら次に進めるかを考えながら、このままだと100年続けるということは不可能だと思いますし。新しい未来は開けると思うので、お客さまの動きを見て頑張っていかなくちゃいけない」