「300年先へ…」 栄村小滝集落の歩み 危機感から芽生えた希望 3.12 県北部地震10年(前編)

「300年先へ…」 栄村小滝集落の歩み 危機感から芽生えた希望 3.12 県北部地震10年(前編)
2011年3月12日午前3時59分、長野県栄村で最大震度6強を観測した長野県北部地震からきょうで10年。栄村では、住宅694棟が被害を受け、全村民の8割近い1700人余りが避難しました。震災後、NBSが継続的に取材してきたのが13軒の小さな集落「小滝」です。地震で集落は存続の危機にさらされましたが、様々な取り組みで持ちこたえ、子どもたちの声が響くまでになりました。あきらめなかった10年の歩みを振り返ります。

大雪の中、元気に遊ぶ子どもたち。今年1月、小滝集落で行われた小正月行事「どうろく神」の様子です。

住民:
「子どもがね、こんな賑やかなところ小滝しかない」

移住やUターンで若い世代が増え、小学生以下の子どもは7人。過疎と高齢化で人口減少が続く村内では稀な集落とも言えます。

10年前は誰も想像できなかった今の小滝。ただ「そうありたい」と強く思ってきた住民がいます。

樋口正幸さん:
「あの上を向けない、笑えない毎日から今の小滝の人の顔を見たらわかるでしょ。こういう顔ができるようになるとは夢にも思わなかった」

元役場職員の樋口正幸さん(62)。

集落の復興プロジェクトチームのリーダーとして奔走してきました。

樋口正幸さん:
「振り返るとあっという間だよね。とにかく走り続けてきた」

地震で17世帯全てが被災した小滝。

のちに高齢の住民1人が震災関連死と認定されました。

農地にも被害が広がり生活再建という重荷が住民にのしかかりました。

このままでは、住民が小滝を離れ、集落を維持できない…。

危機感が募りました。

樋口正幸さん:
「集落は家と家とがつながりあって、環境をみんなが共同で整えてきた」

樋口利行さん:
「集落から出ていくのを、1戸でも1人でもさせたくない」

震災の翌月、復興プロジェクトチームを立ち上げ、当時の区長だった正幸さんがリーダーになりました。

しかし…。

家の再建をあきらめ、集落を離れる住民が続き、厳しい現実に直面します。

集落は17軒から13軒に…。

自分たちは何をすべきか。そのヒントを探しに向かったのは新潟・中越地方。2004年の中越地震からどう立ち直ったのか尋ねて回ったのです。

山古志村(当時)の住民:
「外部の人たちとのつながりを持った集落作りをやっています。来た人に楽しみを与える、そういう自分たちの気持ちをもっていないと」

中越の被災者たちは農業体験などで都会の人たちを呼び込み集落再生を進めていました。

震災から7ヵ月。

正幸さんたち小滝の住民も集落の古道を散策するイベントを開催。

豊かな里山と女性陣が腕をふるった「ごっつぉ」が人々をもてなしました。

樋口正幸さん:
「いろんな人と出会うことによってここの良さ、俺たちが気づかない事をいっぱい教えてもらった」

「古道歩き」は年2回の恒例行事となり、他にもタケノコ汁を味わう行事などに外部の人を招き小滝の「ファン」を増やしていきました。

次に進めたのは「米のブランド化」です。小滝では300年前に引いたという水路で、コメ作りが行われてきました。

樋口正幸さん(当時):
「(集落の)お年寄りが、『小滝の米は他より5銭高く買われていたんだ』って言ってくれた。一番の自慢品はお米だねって。今、頑張ることによって、また300年後に小滝を続けることができる。これが夢、俺のロマンなんです。小滝のロマンかな」

正幸さんは役場を退職、集落再生に専念。

「集落を300年先へ」

2013年、これを合言葉にブランド米などを柱とした復興計画をまとめました。

計画策定から2年、東京・銀座で開かれた「小滝米」の販売イベント。この年、小滝の活動に共感した都内の企業から声がかかり、販路が広がりました。

樋口正幸さん(当時):
「一歩進み、二歩下がりやってきたけど、振り返るとしっかり足跡が残せているなと」

これに合わせて13世帯の住民が出資して合同会社「小滝プラス」を設立。商品開発などを強化することになりました。

一歩ずつ前に進む小滝。

でも、その陰では…。

樋口正幸さん(当時):
「車運転してるとだめなんだな。急にこみ上げる…」

2015年1月、正幸さんの最大の理解者・妻民子さんが亡くなりました。

この10年間で高齢の住民12人がこの世を去りました。

正幸さんたちの活動に力を与えたのは新たに加わった若い世代です。

【後編に続く】