戦後75年 発見された戦時中の『国策写真誌』は何を伝え、何を伝えなかったか? 

戦後75年 発見された戦時中の『国策写真誌』は何を伝え、何を伝えなかったか? 
長野県塩尻市の農家の蔵から発見された131冊の「写真週報」。内閣情報部(後に局)が発行した週刊の写真誌で、目的は国策の宣伝でした。戦況の変化とともに変わっていったその内容は戦後75年で記憶の風化が懸念される中、時代の空気を知ることが出来る貴重な資料です。

列車から降りるのは、父親を戦地で亡くした長野県の子どもたち。靖国神社で同じ境遇の子どもたちと共に東条英機首相から励ましを受けました。

大勢の女性が雪を踏みしめて進むのは、長野県臼田町(現在の佐久市)で開かれた「青少年訓練動員大会」の一コマです。

戦意高揚を図る写真が並ぶ「写真週報」。
戦時中、最大40万部に達したとされます。3年前、塩尻市で131冊が良好な状態で見つかり、寄贈された市が14日から公開します。

塩尻市立図書館・上條史生館長:
「塩尻市内の農村の土蔵からも発見されたということは、国策の宣伝・プロパガンダが全国各地に浸透していたことを証左する資料と考えられる」

1941(昭和16)年12月、日本は太平洋戦争に突入。「写真週報」も真珠湾攻撃やシンガポール陥落を華々しく伝えました。

「マレー半島の病院で微笑む現地の少女と日本人の看護婦」(1942年7月22日発行の表紙)など、占領地域の住民との良好な関係を強調する写真がしばしば登場しますが、「アジアの解放」を掲げる一方で、記事からは優越的な意識も垣間見えます。

例えば「ビルマ人は我々が手を貸して解放してやらねばならぬ憐れな民族である」(1941年12月31日発行)。「怠け者だったマレー人もフィリピン人も、優しく手を取って教えてくれる兵隊さんや軍政部の人たちのおかげで働くことの喜びが判るようになってきた」(1942年12月2日発行)等。

「銃後の守り」も扱っています。
「乙女たちが守る鉄路」という記事(1944年11月1日発行)は、信越線戸倉駅で27人の女性が奮闘する姿を伝えています。男性の駅員が召集された後の駅では、女性たちが懸命に重い荷物運びやポイントの切り替えをしていました。

日本の敗色が濃くなるとともに、「戦艦4隻撃沈」といった架空の戦果が当たり前のように掲載されるようになり、本当のことは国民に知らされませんでした。

「国難来る。撃ちてし止まむ」と国民を鼓舞する記事(1944年3月8日発行)。「撃ちてし止まむ」は「敵を倒すまで戦いをやめない」という意味です。戦争末期には精神論が強調されていきました。

爆弾を抱いて敵艦に突っ込む「特攻」。
特攻機は実際にはほとんどが撃ち落とされ、軍が期待したほどの戦果があがらないまま、前途ある若者の命が失われていきました。しかし、「写真週報」の誌面では、彼らが国に命を捧げたという英雄的な側面だけが強調されました。

塩尻市立図書館・上條史生館長:
「国民を犠牲にして敗戦に向かっていく、とても厳しい時代が表れている。当時の皆さんがどのような気持ちでこれを見ていたのかといったことにも想像を働かせながら、戦争の現実ということを感じていただければ」

75年前の時代の空気を感じることができる「写真週報」。
今月14日(土)と15日(日)の午前10時から塩尻市の北部交流センター「えんてらす」で公開されます。